◆細川英雄『日本語教育と日本事情-異文化を越える-』明石書店、1999年10月

日本語教育には、「日本事情」とかそれに類した名称の授業がある。要するに、言葉だけ身につけても、その言葉の背景となる社会や文化を知らないと、言語をうまく運用することができないという理由から、このような授業が行われているのだと思う。

私 自身も、いきなり「日本」について、学生に教えることになったのだが、問題は何を教えたらよいのかわからないことだ。私の場合、とりあえず教科書を手渡さ れ、それを教えるように言われたので、今学期はその教科書に沿って教えたのだが、正直大失敗だった。失敗の原因はいろいろあるが、いちばん残念だったなあ と反省したのは、結局教科書に書かれている知識を一方的に教えただけになってしまったことだ。

とはいえ、「日本」について何をど のように教えたらよいのだろうか。中国で出版されている「日本事情」に関する教科書を年末にいくつ見てみたが、どれも似たような内容でがっかりした。つま り、日本の地理の説明から始まって、政治や経済の説明、伝統文化や文学の紹介といった内容。昨今の文化論でよく言われることだが、「日本」あるいは「日本 人」と一口に言ってもその姿は多様である。なので、教科書に書かれている「日本」に私自身違和感を覚えてしまう。内容が間違っているというのではなく、な ぜ「日本」の伝統文化だといって、歌舞伎や能を教えなければならないのだろうとか、日本の季節や地理について教えなければならないのだろうかと疑問に思う のだ。もちろん、歌舞伎や能について知らないよりは知っている方がいいし、日本の県の位置関係など知ることも大切だ。しかし、それをわざわざネイティブが 教えることなのだろうかと悩んでしまう。

教科書で描かれる「日本」と私の考える「日本」が異なるという点も問題だ。いったい「日 本」とは何なのだろうと迷ってしまう。いくらネイティブといっても、日本社会のあらゆることを私が知っているわけではない。そんな自分が「日本」の何を教 えることができるのかわからない。結局何をしたらよいのか不安を抱えたまま今学期が終わってしまった。私自身消化不良だったし、学生も消化不良だったにち がいない。

というわけで、今年は「日本事情」の授業について研究してみようかなと考えている。著者は「日本事情」の教育に関して、すでに何冊かの本を出しており、この分野でのパイオニア的存在であるが、それらの本を参考に何か自分なりの方法や理論が導き出せればいいなと思う。

異文化教育とか比較文化論というのは、机上の学習だけではリアリティを感じられない。実際に自分が巻き込まれてみて、はじめてその大切さや困難さを実感した。

細川 英雄
日本語教育と日本事情―異文化を超える