◆綿矢りさ『夢を与える』河出書房新社、2007年2月

前2作とすっかり雰囲気が変わっていたのに驚いた。いかにも「小説」らしくなっていて、それは作者の技術が良くなったのかもしれないが、逆に言えば「小説」という枠の中にきれいに収まってしまって、『インストール』や『蹴りたい背中』のときのようなふてぶてしさが無くなってしまっているように思う。

主人公が芸能人ということで、『蹴りたい背中』に登場していたモデルの女性を発展させた小説なのだろう。他者にどのように自分が見られるのかという自意識は、『インストール』以来、綿矢作品の主題になっていて、だから人に見られることが仕事である芸能人が主人公になったのか。

それはそれとして、主人公の「夕子」に、前2作の主人公の女の子に見られた「本能」というものを感じることができなかった。たとえば、思考よりも先に男の子の背中を蹴ってしまうような本能が見られない。

たしかに、正晃と出会って、性欲の赴くままに正晃との性交を繰り返すという点では、本能的な人物と言えるのかもしれない。だが、それは前作に比べると、矛盾した言い方になるが、小説の展開上計算された本能に思える。

おそらくこの小説が優れているのは、唯一肉体を持った人物の「多摩」を登場させたことにあるのではないか。多摩と夕子が魚の干もの作りをする場面がもっとも印象的だった。他の登場人物は夕子をはじめみんな肉体を欠いているなかで、「多摩」だけが肉体を持った人物として造形されている。だから、夕子は多摩に親近感を覚えていたのだろうし、最後に夕子が向かうのも多摩だったのだろう。夕子は肉体を自分自身の肉体を求めていたのだ。だが、すべてが崩壊して、肉体が自分自身に戻ってきたとき、その肉体は衰えていた。

巽孝之が本作の書評で、本作の特徴として「両親の恋愛から数えて四半世紀ほどの長い歳月を扱っているわりに、流れている時間がたえず「現在」であり、いっさいの「歴史」がうかがわれないことだろう」と指摘し、このような時間性の欠如に21世紀初頭の「不気味なリアリティ」を見ている。この読みは、なるほどその通りであろう。本作は、時間(歴史)を欠いた空間のなかで、肉体を欠いた登場人物たちが喘いでいる世界を描いているのだ。

綿矢 りさ
夢を与える