◆村上龍『日本経済に関する7年間の疑問』NHK出版、2006年11月

メールマガジン「JMM」に載せられた村上龍の エッセイを集めた本。政治や経済について語っているのだが、全体に流れているのは大手既成メディアに対する批判だ。景気について語っていても、日本の政治 について語っていても、行き着くところはメディアに対する強い批判なのだ。メディア批判の内容そのものは間違っていないと思うが、読んでいてそのワンパ ターンに辟易してしまう。読み進めていくと、どうして村上龍は、自分をメタ的立場に置いて、メディアを批判しているのだと疑問に感じる。既成メディアを上 から見下ろしている印象を受ける。言葉の使用に敏感である小説家のわりには、批判の方法にセンスを感じないのだ。

たとえば、メ ディアの特徴として「対象を一括りにする」(p.202)ということを指摘しているが、そう批判する村上龍自身もメディアを「一括り」にして論じてしま う。そのことに無自覚な点に、小説家として言葉の可能性と限界を真摯に考えているのだろうかと疑問に思う。批判がワンパターンであるというのは、つまり決 まり文句しか口にしていないということだ。したがって、相も変わらず、共同体批判を繰り返し、責任ある自律的な「個人」を求める。しかし、「個人」を深く 考えている形跡がない。

読んでいて非常に物足りない内容だった。


村上 龍
日本経済に関する7年間の疑問


◆藤原和博・宮台真司『人生の教科書[よのなかのルール]』ちくま文庫、2005年5月

なかなかよくできた「教科書」。日本の社会の仕組みあるいは「ルール」がよくわかる。概説的ではなく、具体例に沿って解説しているところが、学校の教科書と異なるところ。

「少 年犯罪」から「仕事」「性」「結婚と離婚」「自殺」などといったテーマが語られる。「大人はなぜ接待をするのか」という章などは、日本人あるいは日本社会 を考える上で非常に興味深い。こういう話を、日本語を勉強している学生たちに教えたら、日本社会に少しは興味を持ってくれるのではないかと思う。

私自身、「社会」経験が著し不足しており「社会」のルールをよくわかっていないので、その勉強のためにも本書は役に立つ。

藤原 和博, 宮台 真司
人生の教科書 よのなかのルール

◆藤井貞和『古典の読み方』講談社学術文庫、1998年2月

藤井氏には、岩波のジュニア新書にも古典入門の本があるが、そ ちらが高校生向けに主に古典文法を説明しているのに対し、こちらの本は古典を文学としてどのように読んだらよいのかを説明している。古典を読むのに必要な 知識や背景なども語られており、非常に役に立つ本。何より読んでいて面白い。

物語の読み方や、和歌の味わい方など参考になることが多い。

藤井 貞和
古典の読み方

◆阿部和重『ミステリアスセッティング』朝日新聞社、2006年11月

作品の発表媒体を意識した物語になっている。物語の 語り手としての円熟味が増していると感じるが、たとえば『シンセミア』やそれ以前の作品に見られたような物語のデタラメさがやや薄くなっていると思う。も ちろん、小さな出来事が偶然を介して大きな出来事に雪だるま式にふくれあがるといった、これまでの阿部作品の特徴は描かれているものの、全体の印象はいま ひとつかもしれない。しかし、特に後半部分になると、ぐいぐいと読者を物語に引き込んでいく。後半部は非常に面白い。

この物語は さらっと読み流すと、ある意味道徳的な、あるいは教訓的な物語として読めてしまうかもしれない。つまり、匿名的な空間では、他者の言葉に対する信頼を失 い、コミュニケーションはたんなる解釈ゲーム、暗号解読ゲームへと堕落してしまう。それは愚直に言葉を信じる者が不幸になるのだ。こうした社会を、主人公 のシオリを通じて批判している物語と読まれてしまうのではないか。しかし、それだと阿部和重らしくないわけで、そんな単純な物語を阿部和重は書かないだろ うと疑心暗鬼になると、これはまさしくこの小説の語り手と同じ立場に立ってしまう。となると、この物語をどう受け取ればいいのか。

したがって、この物語は阿部のポストモダン批判なのかと額面通りに受け取れなくなる。考え始めると、けっこう複雑な物語になっている。

阿部 和重
ミステリアスセッティング

◆柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書、1982年4月

本書では、「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」 「権利」「自由」「彼、彼女」という10の言葉を取り出し、これらが近代になって、翻訳のためにつくられた新造語であったり、もともと日本語の歴史のなか にあったが翻訳語として新たな意味を与えられたものであることを論じる。

いいか悪いかは別の問題として、ともかく私たちは「翻訳 語」のおかげで学問や思想を学ぶことができた。だが、一方では日常生活と遊離した言葉であるのも事実で、それゆえに言葉の意味に混乱が生じている。著者 は、しばしば翻訳語の「カセット(=宝石箱)効果」ということを指摘する。つまり、翻訳語は、なんだかよくわからないが、きらびやかでありがたそうな言葉 に思えてしまう。翻訳語はなるほどたしかに翻訳を効果的に進めてきたかもしれないが、一方で一つの言葉を巡って混乱を生じさせてしまった。

「美」 をめぐって三島由紀夫を論じてる箇所が興味深い。「美」とは三島文学の重要なキーワードであるが、著者によると三島は「二つの「美」」を使い分けていると いう。三島の「美」の語り方の一つは、「「美」について語る」こと。もう一つは「「美」に語らせる」ということだ。これは、たとえば評論で三島は積極的に 「美」を語るが、小説では「美」に語らせるということになる。そして、三島は自分が「美」について語る場合は、「ほとんど軽蔑したような口調で、否定的」 (p.79)であるが、たとえば『金閣寺』のような「美」に語らせる小説では、「美」の正体がよくわからない、「とてもだいじな、おそろしいような存在」 とする。

どちらにしても、読者には「美」が何なのかわからない。わからないがゆえに、読者は「美」に惹かれてしまうというわけ だ。三島は、翻訳語の「カセット効果」のうように、「美」という言葉を使い分けながら、「美」という言葉の与える効果を操作していたのだ。この指摘は面白 かった。

柳父 章
翻訳語成立事情 (1982年)

◆内田樹『子どもは判ってくれない』文春文庫、2006年6月

短い文章からやや長めの文章の時評的エッセイを集めた本だ。 本書の基本的なテーマは、「対話」とはいかなるものかということだろう。「対話」の目標としては、自分の言葉を相手に届けることが重要なのだ。これは、 「正しい」ことを語ることよりも、もっと重要だ。「正しい」言葉でも、必ずしも相手に届くとは限らない。相手に届かない言葉には、何の効果もない。何の効 果もない言葉は、相手から責め立てられることもないので、発言者としては楽といえば楽だが、はたしてそれでいいのか。「対話」を成り立たせる作法につい て、いろいろと考えることが多い。

内田 樹
子どもは判ってくれない

◆西研・森下育彦『「考える」ための小論文』ちくま新書、1997年5月

小論文の参考書だが、どうやって「考える」ことを始めるのか、文章を書き始めるには何が必要なのかを説く。それほど奇をてらった内容ではないので、落ち着いて読める本。新書という性格上、やや解説が物足りないかもしれない。論文を書き出すための勘所は押さえていると思う。

西 研, 森下 育彦
「考える」ための小論文

◆戸田山和久『科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法を探る』NHKブックス、2005年1月
センセイと哲学専攻の学生テツオ、そして理系の学生のリカの3人による対話を通じて、科学哲学とはいかなる学問なのかを教えてくれる良書。
最近、「科学的」という言葉が気になって本書を読み始めた。しばしば「科学的」という言葉が「論理的」と同じ意味で使われ、非論理的な文章を「科学的じゃない」と批判したり、学問は「科学的であるべきだ」と主張される。どうして「科学」という言葉が金科玉条のごとく使われるのか。「科学的」であることとは、どのようなことなんだろう。そもそも、「学問は科学的であれ」と主張する人の「科学」って何を意味しているのだろうと疑問に思っていた。こう主張する人の「科学」こそ、あいまいな言葉だったりしてはいないか。
本書の大きなテーマの一つは、科学的実在論の擁護ということだ。いかにして、論敵の批判をかわして、科学的実在論を擁護するかが本書の読みどころ。科学をめぐってさまざまな立場から論じられており、非常におもしろい。
戸田山 和久
科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる

◆橋本治『青空人生相談所』ちくま文庫、1987年12月

何かネタになるような話はないかと読み始める。読み始めると、相 談する方も答える方も、妙におかしくて笑ってしまう。世の中には、いろいろな悩みがあるものだなあと。当たり障りないの言葉で悩みを解決するのではないの だけど、橋本治の答えを読んでいるとつい納得してしまう。絶妙な回答にうならされる。

◆稲葉振一郎・立岩真也『所有と国家のゆくえ』NHKブックス、2006年8月

本書の第3章にあたる、今年3月に大阪で行われた対談を聞きに行っていたので、本書が気になっていた。対談の内容もしっかりと確認しておきたかったし。しかし、活字になったものを読んでも、よく理解できなかった。やはり経済学の話題はまだまだきつい。

分配か経済成長か、どちらを優先するかという対立点には興味があって、私自身は分配のほうに関心をもっている立岩氏の議論のほうに惹かれる。立岩氏が何を考えてきたのかを知って、もう一度『私的所有論』を激しく読みたくなる。